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五月に山を降りる
五月に山を降りる
夜の国分町と猪苗代湖への旅
冬の間、私はいちども街に出ることはなかった。日記を調べると前の年の十二月に友人の忘年会に誘わて国分町まで出かけたのが最後だった。街に出かけない理由は簡単だ。用事がないのだ。通勤もしないし、街に出ないと売っていないようなものも欲しくないし、外食もしない。家で考えごとをして、近所のスーパーかコンビニで買い物をして、たまにホームセンターに行けば用は済んでしまう。だから街まで出かける理由がない。ただ、それよりも大きいのは、用がなくても出かけるほどの楽しさをこの街には見つけられないことだった。
大学生のときからもう三十年近くも住んでいるのに、自分の住む街に愛着をもつという感覚がない。生まれた場所への郷土愛はあるけれど、住み慣れた場所への愛情はたぶんゼロに近い。そういえば同じ場所に住むことは昔から苦手だった。十九歳で実家を出てからこれまで何度も引越しをした。記憶が確かなら都合十一回だ。転勤とかそういうせざるを得ない理由もなく、ぜんぶ自分の意志でただ住処(すみか)を移り歩いた。子供でもいようものならとんだ迷惑な話である。転勤族でもない父親の、ただの浮遊癖のために、知らない土地の知らない人のなかを連れ回されるわけである。住む場所に愛着がわかないのはそういう理由かもしれない。慣れて地縁ができてその土地がわかってきたころに、もうそこを離れてしまう。根を下さずにたえず終(つい)の居場所を探しつづける。

私はいま仙台の郊外に住んでいる。泉ヶ岳の麓に近い町である。ここに来てから十三年になる。そういう意味では異例の長さだ。十八年前に仙台駅の東口にある予備校の真向かいに新築のマンションを買った。正月の初売りの日には窓からヨドバシカメラに並ぶ行列が見えた。当時は堂々たる街の住人だったのだ。五年かそれくらい住んでそこを売り払い、いまの家を買った。知り合いはなんてもったいないことをしたのかと言うが、まったくそうは思わない。私には住めない家だった。数ある住処のなかでそういう感じがしたのははじめてだった。街中に住む利便性など必要なかったし、他にも下階とのつまらないいざこざや、かえって不自由なことが山ほどあった。だからもういちどあそこに住めと言われてもそれはできない。最近はバルコニーでタバコを吸っても管理会社から注意を受ける。だからそもそもマンションには住めない。なら部屋のなかで吸えばいいじゃないかと思うかもしれないが、それもできない。タバコは好きだが、タバコの臭いは死ぬほどきらいだ。吸ったあとで手も口も鼻も洗い流すのはそういう理由だ。
いまはもう完全に町外れの住人になってしまったから、仙台に住んでいるというよりは、どこかの土地のとある郊外の住宅地で暮らしているという感覚しかない。冬になれば雪が降り積もるのでここは東北だとわかる。ときどき思い出したように地震で家が揺れるのでここは宮城なんだとわかる。外で酒を飲んで気がつくと、いつも明け方の稲荷小路を南へ歩いているのでここは仙台なんだとわかる。けれど自分が仙台の人なのかといえばそうではない。生まれ故郷である秋田の人と呼ばれれば悪い気はしない。けれど仙台にお住まいですか、あそこはいいところですよねと言われても、愛想笑い程度しかできない。住処への愛着と魅力は切り離せないものだが、そのどちらもあまり感じない場所で、どこにも移っていくことができずに、その背反のなかで生きている。そして私がこういう話をすると地元民にはだいたいいい顔をされない。それなら早くどこかに引越せと言われる。けれどそんなに単純なことではないのだ。水があれば魚は泳げるわけではない。それと同じだ。
私がけっして街中に現れないことを水野さんは山にこもって瞑想をつづけていると表現する。その水野さんから何ヶ月かぶりに連絡があった。ゴールデンウィークはどうしても月末月初と仕事の繁忙期が重なってしまうので、休みを余計に付け足すことはできない。だから連休の予定は空になっているそうで、それなら久しぶりに山から下りて来ませんか、ということになった。もうとっくに春なんですよ、と言われた。
ホテルのフロントで名前を言うと、「本日は広めのお部屋をご用意いたしました」と受付の男が言った。部屋はたしかに広かった。ベッドが二つもあった。泊まる場所はどうせ明日の始発までの時間をつぶすための、ギリギリ野宿をしなくてすむような小屋でもいいくらいだった。一泊五千円でも悪い気はしないが六千円を超えたらひどいムダ遣いをしたと感じる。それならタクシーで帰るかマクドナルドで早朝の眠気と戦うほうを選ぶ。水野さんに聞くと昼飯を外で食べたら千円かかるのが当たり前になったらしい。世間に出ないからあなたはまだコロナ前の金銭感覚なんだと言われた。そうじゃなくて私はほんとうに貧乏なのだ。百円の刻みで形而上の死活問題といつも格闘しているのだ。その世界に終わりがくる気配はまだない。だからその日もいちばん安いこのホテルにしたのだが、どこをどうすれば三千五百円でツインルームに泊まれるのかが不思議だった。

体にタバコの臭いがつくのが嫌だったので、部屋以外で喫煙できる場所はあるのかと訊ねると、ホテルの前で自分で灰皿を用意してなら吸ってもかまわないということだった。さすがにそんな間抜けなことはしなかった。ハラスメントという言葉が便利に使われるようになって、それでなくても小便臭いガキまでが私のことをタバコハラスメントだと文句を言う時代だ。朝、中庭でタバコを吸っていると、ランドセルを背負った女の子が三人、歩きながらこう言った。「あいつ、青いのを着たやつ、座ってるでしょ」「ああ、あれか」「ハラスメントだよね」「くっさー」私は下を向いて目を合わさなかったが、あきらかにタバコの匂いを嫌って私にケンカを売っているのがわかった。なめられたものだ。私はこういう敏感なくせに鈍感な子どもの未来のために、値段の半分のタバコ税を納めているわけではないのだが、まあいいだろう。あの子らも遊びも奥ゆかしさもないこの世の中で生き抜くための知恵をどこかで授かったのだからそれは褒めてやる。それならこっちが一歩引いてやる。その翌日から私はそいつらの通学とは時間をずらしてタバコを吸うようになった。
(次回へつづく)
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塵野三月 Mitsuki Jinno
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